あるとき気づいたわけだ。
これまで外界との関係、人との関係において何かが成されることを私は「成就」と考えてたんじゃないかと。
それだと成就すること・しないことが出てくる体験に見えるが、その感覚がそもそものエラー。誤認識。
私は私との関係においてすべてが成就しているのだが、そのことに気づいていなかった。
手をつく。はい成就。感じる。はい成就。呼吸する。はい成就。まばたく。はい成就!
私を通して外に現実があるかのように知覚する……見事な成就!
源と私の、完結ネットワーク。
完全な成就があることをスキップして、そこに目を向ける代わりに別のところを見ていた。
別のなにかを追っていた。
地面に映し出された光のウロコ模様の波をひたすらつかもうとして、光源がどこにあるのか、何を通してそうなってるのかを忘れてるみたいに。
私がキャッチボールしてる相手はだれで、ここでなにをしてるのか、それを思い出せば成就の意味が変わってくる。
私と私の、完結ネットワーク。
成就、成就でEVERYTHING成就。
成就してない瞬間がどこにもない。
完璧な成就の点々を、素早く繋いで渡り歩くから、私たちのこの体験が連続に思える。
このことを知れば、どの瞬間も、満たされた状態の中に常にいる。
錯覚に基づいていつまでもどこまでも、空を切り続ける架空の触手を延々と伸ばすことをやめられる。
だってその方向では何もつかめない。ほんとに、なにも。
満ちるのは、満ち溢れてることを知るのは、そこからじゃない。