長年読み返してないけど処分せずに保管しておいた本、過去に好きだったとか良質な内容だったからこそいまだに本棚に入ってる本があって、
そういうものはときどき、長期そのままだったにもかかわらず、突如として背表紙が光って私の注意を引くことがある。
それが数日続くとさすがに、「なんだろう、読み返してみよう」と手に取るようにしている。
丸一冊読み返す必要はないことが多いが、大体どこに目を通せばいいのか部分的にわかったり、あとは「そういえばこんな内容だったなぁ」とパラパラ読み返していくうちにとんでもないことに気づいたりする。
最近そのように数冊の懐かしい本を手にとり、驚いたのは、かつては深みを伴う良書として私の役に立ってくれた本が、今やエネルギー的に得るものが
エンプティ
になっていたことだった。
さらに衝撃だったのが、あたかも師のようだった(私が昔読んだ時点ですでに逝去している人の本も多い)それらの本の著者のことが…今ではなんというか、あまりに若く感じるのである。
若いというのは、現在の私の実年齢と著者たちの当時の年齢を比較してという意味じゃないんだ…
精神的な若さ、幼さ、自分より年下のものに接してる感じ、といえばわかっていただけるだろうか。
これには本当に動揺が走ってしまって、
え、こんな本だっただろうか?こんなにも、著者の目線は浅かった(もしくは人間らしく迷いの多いことにありありと気づいてしまう内容)だろうか?
まるで信じられない、同じ本なのに違う本にいつの間にか変わってしまったかと思うくらい、エネルギー的な「質」が以前と違って感じられたのだ。
昔、私がそれらの本を購入したり、まだ読み返したりしていた時期にはそんな風に感じず、時を経ても価値ある内容と思えていたから幾度かの本棚の整理をくぐり抜けて選ばれ、保管してあった。
だからこそ、自分にとっての驚きは大きい。
明らかに、本に書かれている内容から私が受け取れるものがなくなったということだろう。
それによって、私の受けるエネルギー的な印象はがらりと変わってしまい、自分にはエンプティだと……どうやっても、そこから得るものがもうないと感じるようになってしまった。
これは自慢たらしく言ってるのではなく、むしろ私はさみしかった。
ショックですらあった。
自分が敬愛している、先の道を行く先輩のようだったエネルギーがあったと思ってごらん。
いちいちアクセスしなくても心のどこかにそれらは、いつもほのかな灯りのように「ある」ものだった。
そのエネルギーを、自分がいつの間にか追い越していた。
たとえ「同じような感覚で前みたいに味わいたい」と望んでも、それはもうできなくなってしまったのだ。
こういうショックって、やっぱり補助輪を外すのに似ているのかな。※
断崖に向かって立ち、背中をとん、と押される。
好きなように飛んでごらん。
あなたはもう、飛び方を教わっていたヒナではなく、大空をはばたく鷲(eagle)なんだよ、と。
上空からの景色も、受ける風も、旅路も……そこから味わうすべては、独自なのだ。
(※補助輪を外すという表現は、3月3日にこちらの記事で用いた。
☆「本質的な違いを生むのは、ここに属さない『意識のゼロ地点』から」note公開 - masumiのbehind the scenes
なお、紹介しているnoteは最初につけたタイトルが長すぎたのと、読む前にバイアスがかかる表現だなと思ったので末尾につけてた副題を外した。非公開パートで意図している内容を正確に表せていなかったからです。)