おいおい、これはもう過去に済んだことだと思ってたけど!?
私の人生ではキレイに終わったテーマだとばかり……!
そんな感想が湧いてくる今日この頃、
私の人生になぜだか「時空を超えての自己間の繋がりの実感(過去・未来の自分との連動や協力を感じさせるシンクロ)」と、
「もう『済』印を押したと思ってたテーマの一巡現象」も起きているのです。
ただし「一巡」に関しては、人生を大きくひと巡りという意味ではなくて(笑)特定の時期から体験したことのあるテーマのいくつか…ですね。
2025年に入ってからの記事でこうした流れを語ってきましたが(今までの2025年の記事一覧)。
昨日の記事もそのひとつで、
★「【エネルギー的な現実と真心】日和れるタイプでもなくってさぁ…」(2025.02.25)
…玉石混淆になってても「見えない世界」のことだからこそ気づかれにくい、スピリチュアル・ニューエイジ・精神世界と呼ばれる分野についての私の思い、
先にライブ配信の方でこうした話題におのずとふれる流れになってたのですが、
自分としても意図的にそのテーマを選んだわけではなく(私の記事もライブもインスピレーションに直結したアウトプットです)、
「なんと、この古い話題に今またふれるとは!?」という感じで驚いてるんですよ。
それでね、そういった展開を見ながら今「こういうことかな」って理解してるのは、以下の3記事で共通して説明してた通り、
★【ぶっちゃけ話】超越しながら降りてくる・精神的な浄化の吹出口を担うこと
★炭鉱のカナリヤやアラームの機能だね【真の超越視点・魂の視点】
★霊的感性の進行表・コミットの時!
自分の人生を存在・魂目線で考えたとき、私にはかなりはっきりとした目的があって、
けれども自分の経験世界を見ながら「これはもうここまで(これ以上、私にできることはない。介入すべきところじゃない)」と過去に判断して、自分は自分の道を行くことにして、関心を打ち切ったようなテーマが今出てきてるのかなと。
まるで「総仕上げ」っていうかね、「まだそこ、できますよ」というところを見直す機会になってるんじゃないかなぁ。
これはいうならば「自分自身の人生(個人としての私)」だけ考えてたらもう、ふれなくていいところ。
私自身は関わらないから、私個人の現実に直接起きてることじゃないから、もうOK!って遠ざけられそうなところ。
だけどそれは表層の態度であって、私の深いところではそんな風に突き放して見てはいなかったんでしょうね。
そっちに行ってほしくない!
助けたい!
別の道を知ってほしい!
みたいな呼び声が自分の中に強くあるんでしょうね。
昔から悩みになるのが、これが表現として出すぎると、自分なりにどんな深い思いやりからの根拠があろうと「コントロール」になりはしないかということでした。
本当に誰かを自由にすることは、その人が選ぶあらゆる経験をOKとし、それを本人なりに経験することを邪魔しないこと。
…と考えるなら、黙っていた方がいいのだろうと。
でも近頃の私が再認識してるのは、
魂の呼び声
を考えた場合、そしてその根源は全存在に共通の「ひとつ」であることを自覚する場合、
私が私である以上、自然に湧いてくる声というのは、押し殺さないで発言した方がいい。
できることは、した方がいい。
その結果がどうなるかは別として。
昨年末のライブで少しお話ししましたが、
私は地球または宇宙の文明の、様々なバージョンの記憶があります。
記憶というより、すべては並行して今あるわけだけど。
人類の「起こり得る未来」のいくつかは知ってるということになります。
極端に言えば、並行現実のうちの「何バージョンかは結末を知ってる映画」を見てるような感覚。
それで今回は別のものを創ろうとしてるというか…(ただ、特定のバージョンをひどく避けたいなどの恐れは持ってないんですよ。魂目線だからか意外にフラットな感覚)。
だからこそ私の心にあるのは、
自分で考える・感じる力をないがしろにし、自分で自分を見つめることをしないで、
「このエネルギーにさえ繋がれば」「これさえやれば」目覚められるとか、癒しが進むとか、ありえないのに、
そういう甘いことをさもありえるかのように言ってそそのかし支配する、私腹を肥やすこと(お金とは限らずパワーゲーム全般)やエゴの満足にはまっている提供者、
同時に、そういう甘いことにつられて自身を他者や他の存在にゆだねてしまう「ロボット化」の道を行く人。
そこには偽りの安心と、外側に何かがあるという錯覚に基づく支配・服従の檻があり、自分の意識を眠り込ませたサイクルから出られない。いや、もう自ら「出ない」存在になってしまう…
そういう現実もあるんです、人類の集合意識に。
私はそれらの情報を覚えているまま、生まれました。
この人生の早い段階から映画のように様々な別次元の情報・記憶を見てたし、自分の心の奥底にある気づきとしても知っていました。
だから…スピリチュアル分野に参入しても私は、「意識・心への理解を深めていくはずの分野でどうしてこんなことが?」とか、「違うよ!そっちに行ったら眠り込んでしまう」とか多々反応してたんですよね。
先に自分の中に基準になるものがなければ、そういった「知ってる」反応が生まれないですよね。
そしてこのことは、かつての私がそう信じて身を引いたのと違って、
「自分ひとり、わかっていればいい」
という風には終わらない何かなんですよ。
たぶん、自分が納得して自分だけそれを生きていれば満了なのであれば、私はこの世にこういう形で生まれてないでしょう。
メッセンジャー
あるいは
ヘルパー
としてこの情熱を保持しているのだと、自分のあり方を捉える方がしっくりきます。
これ自体はずっと認めていながらも、難しかったのは、相手の自由を尊重する意味で「余計なことを言わない」ということを考えていたから。
2月22日に書いた「二重のメッセージ(矛盾・葛藤)を超越する方法」の中でいうと、人々が表層に見せている姿、表向けのメッセージを壊さずに肯定してあげることも大事なのだと配慮していたから(個人セッションなど専門的合意がある場合を除く)。
人間社会ってまだそのようにできているのに、かき乱すものじゃないというか。
でも、今はもうその段階じゃないんですね!
二重のメッセージにつきあってる時期じゃない。
直接的に、魂の声にこそ対応する時がきたのです。
奥に見えているものを、そのまま「私にはこう見えるよ」と伝える時が来たのです。
少なくとも、私の人生では、そう。
テレパシーを使い合える、心が統合された者同士でのコミュニケーション※を実現する未来に向けて、これはもう必須の変化なんですよ。
その世界は「今は非現実的なままでも」いつか遠い未来にぼんやり、なんだか実現できてるというわけじゃないからね!
今の私たちが「そのように変化する必要」があるんですよ。
※ちなみに、人間以外の生き物には統合されたコミュニケーションしか使えません。彼らの心は分裂してませんので (笑)
私のnoteでは「ネイチャーコミュニケーション(生き物たちとの交流)」というマガジンに、地球の様々な生き物たちとのコミュニケーションに関わる記事を収録しています。