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感受性のベクトル・人生の課題

私は、自分の人生の課題はわかっていて、そのくせそのことに葛藤はするんだ。
少なくとも現時点で自分が内的に何を見ているか、魂的にどんなことがしたいかは知ってるけど、「人間目線」になると自問自答してしまうことが多々ある。

すなわちそれは、物理的な解決策を自分の道として選ぶという、逃避の誘惑が捨て切れていないということだ。そちらに向かおうとする、視点のズレやブレというか。
しかし一般的にはそれが正しい道で、つまり物理的な解決策こそが賢い選択と言われることも多いだろう。

だけど私は、それは違うんだということを知っている。
自分の内に照準を合わせる視点になると、自分が何をしているかという自覚は変わってきて、本質が見えてしまうからだ。

果たしてそれは順序の問題で、物理的な解決策に飛びつくことは「対症療法」となる。
原因はそのままに、表層だけなだめて、本当の解決は先延ばしにするようなもん。

私は、私自身は、それでは後々うまくいかないのを知っているので、基本的には自分のセッションのクライエントさんや講座の生徒さんたちにも、そういう方法はおすすめをしない。

いっとき、傷口に塩を塗り込むような感じがしても、見たいものを見るんだ。
そのうち、自分がそれまで導き出していたものの見方がいかに間違っていたかに気づくときがくる。

自分自身でそれに気づけたときが本当の「勝利」で、あなたがほしいのはそれなんだ。

それは自己否定ではなく、真の意味での自己肯定なんだよ。
あなたは「自分とは何か」を忘れた解釈を用いてきたのだから。

だからね、自分のものの見方が同じままで物理的な解決策に飛びついても、それは責任転嫁のゲームなんだよ。
「原因は私じゃない、外の世界でーす」
ってね。

そうやって原因を外にパスし続けてれば、いつまでも自分の内にある本当の原因を変えなくて済むのだから。
その誘惑に屈しないで、思い出して。

…で、それと一緒に、感受性のベクトルの話です。
私は自分の感受性を厄介に思うことが多かったタイプで、「もっと感じなくなれれば」どんなに楽だろうと思うことは多々あった。

それは別に、自分がとくに繊細だとアピールしたいわけではなくって、
むしろ同じタイプの人はよくわかってくれると思うが、「繊細」なんて人に言われるとムッとするくらい。
それは私にとっては負い目、悪口でしかない。
褒められてると思うことはまず、ないんだよね。

だから強いふりをしたい、何でもないふりをしたい、自分がそれでOKと思える自分でいたいというのは強烈な願望だったが、
本当の意味でクリアできてそうなってることと、そうなってないこととがあり、後者はごまかしにすぎないので、もちろんそんな演技をしていると反動が来る。

ガラリと自分を変えられたらと思うけど、そんなことはできず、実りのない闘い。
しかも視点を変えれば自分の感受性は仕事や、望む活動に役立つ欠かせない要素でもあるのだ。

だから不便に思うのも、便利に思うのも、ベクトル次第。

そういうことをときどき見失いかけてしまい、ただひたすら「Numb(ナム、麻痺や無感覚という意味の英語)」に自分をもっていきたくなる。
それも、自分の都合のよい分野でだけね(笑)

そういう自分のあり方に、暗い目で心がうろうろしそうになったとき、
とある人からいただいた、あまり日常的には食べてなかったとある果物が、ふと、思いがけないメッセージを運んでくれた。

そんなこと期待もしなかったし、まさかそこからそんな扉が開くと想像もしなかったのだが。

それは、私がかなり長いこと忘れていた、ある著名な画家からのメッセージで。
私の魂にとって縁のある人物だったのだが。

その画家は、生きた時代は違うけど、人間として苦しみ葛藤もしながらも、自分であろうと最大限に生きた痕跡を残してくれた。
自分の感受性を、どうしても生かさずにいられなかった人だった。

「感受性のベクトル」
ひとりひとり表現として異なるそれがある。
どんなに他者の見本と違っていても、あなたにはあなたの感受性があるんだ。
自分のギフトと思うのも、足枷や重荷と思って恨むのも、自分次第。

あなたが憎み、不器用に思い、切り捨てたいほど嫌っている側面は、必ずあなたを助けてくれる。