自分で長年、意識・心の扱いを演習し続けてきて思うんだけども(内なる実践と研究はいつでもセルフ実験状態。私自身が実験台だよ 笑)、
統合視点(真我そのものであること、それと整合のとれた状態)が醸し出すポジティブさと、
二極性の中でのポジティブ(裏側には対になるネガティブに相当する概念がある)
とは、まったく異なるものであるということ。
これを私は、自分の発信活動の初期からわりと強調するようにしてきたつもりだけど、一般的にそこまで両者の区別がつけられてないような気がするのですね。
というか、ともすれば私たちは日常を過ごす中でその違いに自覚的でなく、とりあえずポジティブな状態になってることを「良いこと」と見なしてたりするよね。
逆にいうと、ネガティブな状態になってる自覚があるときは「こりゃまずいな」「嫌だなぁ」などと考え、それを修正しようとする心当たりはありませんか?
私の実感を伴い、make a Long Story Shortで今回は簡単に説明すると、
反対の極があるポジティブっていうのは、いかにポジティブでいい気分の状態であろうと、自分自身が割れてるだけ(分離の状態)でひとつになってないのですね。
するとそれは本質的にもう一方の対である、ネガティブの極の状態と変わらないというか。
(そこまで言う!?って反応を呼び起こしそうだけど、そうなんだよ 笑)
この意味で、どのくらい深めて理解してるかにもよるけど、私はいわゆる「引き寄せ」の考え方は場合によっては賛同できないことがあって、うわべを扱いすぎてる感触を伴うことがあるんですね。
つまり、二極の片方である「ポジティブ」を追っかけてると、本当の幸福はないというか。
この世では、二元や二極の表現が当然のことになっているために、永続する幸福は蜃気楼にならざるをえないので、その中でどうせなら「ポジティブを選ぼう」というのはひどく有益に聞こえるものですが。なにせ、すべてが滅していく前提があるからね。
私が度々「第三の視点」とか「出る」という話をするときは、言いたいことはこのポイントであり、この世の体験をしながらも、
統合視点
にあり続けることができるよ、という話なんですね。
その視点にとどまれるようになればなるほど、いつしか私たちは、自分にとっての「平常・通常」の体験がその足場ごと、次元が上がってしまうわけなんです。
いわば自己体験の地面が、もっと上の次元になるというか。
これまでは物質的体験の知覚の舞台にいたと思ってたのに、気づいたら体験が様変わりしてるというかね。
これには、肉体感覚の個人に限定された自己認識はトリックであると見破ることが必須で、「私とは何か」という認識を正しく持つ必要がある。
いわゆる「目覚め」ですね。
はい、あなたはこの世の中で動き回ってる肉の生命体というマリオネット的な何かではないんですよ。
あなたは創造主とひとつであり、あなたの現実の創造者であり、あなたの体験全体をあなたの意識内で上演してる者なんですよ。
意識でこれを作ってます――誰が?
あなた自身という「私」が!
これを自覚してる視点がゼロ・ポイントであり、真我(ソース、The One)とひとつの状態であり、
源の性質そのものと一致しているので、私たちの感覚を通すと本質的なポジティブさやナチュラルさを伴います。
私たちの生来のあり方だからです。
このときのポジティブな感覚には「反対の極」がありません!
シーソーみたいに、天秤みたいに、反転すればネガティブが想定できるというものではないんです。
だから、このことを統合視点と呼んで区別し、二元性や極性におけるポジティブとの違いを知っている必要があるなぁと私は実感してます。
私が見据えている時代の流れでいうなら、意識状態として先へ進みたければですが、
今の私たちは、その統合視点の自分になることが大切なんですよ。