masumiのbehind the scenes

ヒーラー・スピリチュアル講師・物書きmasumiのサイト

【ぶっちゃけ話】超越しながら降りてくる・精神的な浄化の吹出口を担うこと

私たちの地上の活動自体に、レベルの高低を定めるとか、そういう意味ではなくてですね、
およそ昨年から私は、
「このレベルのことにまさかもう一度、関わることになるとは思わなかった」
と……
あくまで自分の「意識内の学びという歩みの観点の中でそう感じる」
すでに十分学び終えてむしろ「このレベル上で何かに取り組むことはもうない」と思ってた世界に関わることになり、表層上の自分としては不可解でした。

自分が過去にクリアーした段階であるからこそ、本質的にその段階での問題を抱える誰かが現れれば助けることができる、という側面はありますが、
(そうでなければ、溺れてる人を泳げない人が助けようとするような状況になりますからね)

でも私の場合、もはやそのレベルでの救助活動への意欲自体を持っておらず、「そのレベル上の取り組み全体に私は有効性を見出してない」という状態で、いうなればもっと「超越的な方法」によって癒す、解除することにフォーカスしていました。
根本解決とか真の変化を思えば、それが最善だったからです。

でも……、
そうした自分の知る最高のやり方で、もちろん自分が現実の創造者として状況を眺めて取り扱う、自身に向き直る姿勢を継続してましたが、
率直に言って疑問に思ったのは、吹き出てくるものがもはや直接の自分自身の何かという感じが薄れてきていたことです。

あまりに規模感が桁違いな何かと繋がっている手応えがあり、「なんだこれは?」と不審に思っていました。

昨年の途中、記事で「もののけ姫の登場人物、アシタカの腕から呪いが噴き出してる状態のように」というたとえを用いたことがありましたが、
呪物が私の中に返りました - masumiのbehind the scenes(2024.08.10)

このときはまだ、A Course in Miraclesという私にかつて縁のあった書物のこととか、
何かしら今の人生の自分のエネルギーに結び付けての「ギリギリそこにアタッチする解釈」を採用していましたが、

今年に入ってからですかね。
もう明らかにわかったのが、

「集合意識の巨大な袋みたいなものがあり、その中で自分が吹出口となって浄化していく分がある程度決まってるのでは(持ち分・担当を引き受けてる)」
という感覚です。

これまで、私はあまりに自己に向き合う作業を真摯にやってきたので、少なくともこの人生の体験の中で自分が作ったエネルギーの重さと、それ以上の何かとは区別がつくんですよ。

接続しているものが大きすぎるし重すぎる、根深すぎる。
とまぁ、こんな感じです。

私はいつか、そのようなエネルギーの吹出口にならずに済む日を夢見ていたのですが、私が悟ったのは、むしろ、
「やり切るしかないのでは」
ということでした。

ふつうの人生に憧れていました……というと変ですが、
こういう霊的・エネルギー的な作業と無縁になる日が訪れることを期待していました、私は。
セッションはこれを指してませんよ、分野は重なるし完全に分けることはできないですが、セッションは自分が望んで意欲的にやっていることです。今回の話はプライベートで表れてくる領域の話をしてます。)

これは決して、自己犠牲という意味ではないんです。
だけど表層の私がルンルン気分で選択するというものでもなく、魂がもう何ともそういうことに熱意をもってここにいるのだろうな…と事実を認めたという感じです。

そもそも私が、先の説明でいう「超越的な」観点で癒しや、心的・エネルギー的もつれの解除の作業を行うと決めていたのも、
どうすれば真に世界が調和するのか、人や生物をほんとうに助けることができるのか(自然界は、人間の状態さえ整えば常に調和しているので、助けという概念は必要ないですが)…ということを考えた末の選択でした。

つまり、やってもやっても本質は変わらない、
むしろ表層的には一見「助けてるような」ことをして、問題の解決を長引かせてる状況は多々あるので、
そちらではなく真に効果を持つやり方を実行したかったからです。

これは私個人の願いであると同時に世界や他者を思っての願いでもあり、
この「超越的な視点」を強力に作用させられるよう、自分の持てる集中力のすべてを注いでいたといってもいいと思います。長い間ね。

(便宜上、超越的な視点と書いてますが、決してこの世から分離したあり方という意味ではなく、これまで私が記事等で発信してきた教え・あり方のことです。)

ところがどうも、その集合意識の巨大な袋みたいなものの吹出口を担う構造、
自分のミッションというか担当というか、やってもやってもそれがあることに気づいてからは(元々それに気づいてましたが、それを受け入れてしまうといつまでも自分が幸せになれないと思っていた)、

「超越しながら降りてくる」とでも言うような、
自分の認識の基盤はその世界から超越していながらも、
人間の心が作った吹き溜まりやもつれたエネルギーをあえて引き受け浄化し続ける
ということへの覚悟を決めたというか。

どこまでこれが続くのか、一生なのかはわからないのですが、
「超越」だけでかわしても、それが終わるようにはもう、思えないのです。

それが数日前の記事(過去の自分にグッジョブ【情熱と愛は時を超えて助ける】)で引用した昔の記事内の夢の体験、「暴れ馬になった黒馬に、危険な足場の途中であっても向き直って融合する」のを今の私がやっている、と書いた意味です。

嘘を脱いで、裸になってもらうには

元々それに気づいてたと書いた通り、ずっと昔から自分の担うあり方については思うところありました。
ここ最近連続で言及している旧ブログから、該当記事を2つピックアップして紹介すると、
何も持たずに - BEATS AND LOVE(2011年12月28日)
インディゴの課題 - BEATS AND LOVE(2011年12月29日)

なにぶん古い記事ですので、そこは読む際にも考慮してもらって。
連載したこの2つの記事で、当時のスピリチュアル分野で用いられることがあった「インディゴ(チルドレン)」という性質に当てはめて私のことを説明しています。

嘘を生きてる人や虚偽の状況に自然と気づいてしまうこと、すると自分のエネルギー・感情が反応して自分自身が苦しくなるので、「嘘を脱いで裸になるよう」介入してしまいがちだという解説です。
(プライベートのみならず会社のような組織、団体においても、この性質から巡り合ってしまうのか、ずっと蓄積されてた問題やそこに属する人々のやり残しを解決する作業であるとか、自分が作ってもいない状況の是正、後始末、片付けを担うことが多々ありました。)

特にスピリチュアルな興味がなくともこの性質が強い人はいて、
すると「真実を語ること」「ウラオモテのあるあり方を壊す(虚偽の終焉に導く)」などの役割を担うことが多いでしょう。

元々そうである私は、このサイト名は「masumiのbehind the scenes」ですが、2023年6月にこんな記事を書いていたように、

s-masumi.com

私自身は「裏の顔」を作るのが苦手なので、しないのです。

強いていえば、昨年のライブ配信で語っていたように自分の中で、
「これは表現しない方がいいかもしれない」
「諸々の影響を考えると、言葉にして発信することは控えよう」
など慎重に、倫理的判断だったり他者を考慮したりした結果としての考えが、
結局は自分の「恐れ」による選択が混じっていないか?すると内的な二面性を統合できないのかもしれない……と吟味する流れはありました。

今年に入ってからは「オブラートにくるまない!」と決めたことで、自己の統一性に、より忠実になってる実感があります。

先ほど紹介した旧ブログの記事を読んでもらうとわかりますが、
何よりも「自分が脱ぐ(裸になる)」ということをしていけば、他者へも世界にも「それで安全なんだ」「機能するんだ」とわかってもらえる機会を示せるものだと思います。

この点でますます、何に直面しても厭わず、ただの私であろうと思うのです。