3月末から記事でお話ししていた、動物関連の資格をとる勉強の中で、動物の体についても学んでいるのですが(人間も含まれる)。
この話題に関する前回記事はこちら(同シリーズの過去記事紹介も含んでます)
★動物の勉強。届いたテキスト・教材が…キュン♡
予想より情報量の多い教本や資料を見て、うれしく興味深くも「これどこまで覚える必要があるのだろう?」と考えつつ……
私は大学は文系でしたが、高校時代の選択科目は生物をとっていたことを思い出しました。
まさかこのタイミングで、またしてもこういう情報と向き合うとは。
そして新しく学ぶことも多いです。今回は、勉強の目的というかフォーカスがまた異なりますしね。
もちろんメインは人間以外の動物になっていくわけですが、この機に人体についても改めて見ていると、思うことがあります。
やはり現状のこうした(一般のフィジカルな)理解では、私が日々フォーカスしているような「ヒーリング」はその延長上にはないということなのです。
体や生物の「仕組み」を勉強することは面白いし、それはそれで気づきをもたらすのですが。
それはある意味では精巧なコンピューターや、受信デバイスを分解して、その仕組みを理解しようとしているのに近いんですね。
それをつくっている「意識」への理解がないという意味では……いえ、ないというよりも元(源)を想定しない見方ということですね。
送信「元」を見ずに受信機への理解を深めるというのに似ているとお考えください。
この例でいうところの受信機・デバイスに詳しくなることで、そこから意識の意図を逆から読み取るということは……一部可能かなと思いますが、
といってそれは現実(現象界)を見ることで「私」の本質を知ろうとするのと同じくらい、トラップ(罠)になるのです。
この点で、意識を扱うヒーラー目線でいうならば、学び、理解することの有用性やその体験が役立つことを肯定しつつも、
それらを「忘れる(超越する)」
ことはヒーリングにおいて必須になります。
忘れるというよりゼロ化する、がふさわしい表現でしょうか。
これを意識的に行うことがヒーラーのあり方になります。
その状態は、ただ無知であることとは違うし、忘却しているというのとも違います。
現象界とは何であり、表現とは何で、意識は何をしているのか、という認識を持った上で、あえて「ゼロ」の状態に入っていくという姿勢なのです。