masumiのbehind the scenes

ヒーラー・スピリチュアル講師・物書きmasumiのサイト

ソース(源)と繋がることの至福とよろこび!

しばらく前まで……
いつもいつも近いところまで来てるのに、
概念はしっかり把握してるつもりで(そりゃもう人に教えられるほど)、
それなのに実践面ではどうしてか、どこか「へり」にひっかかってるような感じがしてた私は、
ここだったかー!!!!
という楽しい発見を確信に変えることができ、
これ…これが欲しかった、という嬉しい気持ちでいます。

ずっともう、とうに度々味わっていたような一時的な実感ではなく(その実感がすでにあるからこそもどかしかった)、私は永続するそれを求めていた。
点いたり消えたりするのではなく……
確信レベルで、自分ができた!と知るそのときまで。

子どもの頃に行った遊園地に、「ミラーハウス」というアトラクションがあってね、
ただ鏡がたくさん張り巡らされてる部屋にすぎないのに、なぜか怖くて泣いた。
照明が暗めだったのもあるけれど、親に手をつないでもらってても、私と妹はその鏡だらけの迷路のような(でも今思えばわりと単純な道順だったと思うのだけど)部屋を出口まで歩くのが怖く感じたんだ。

大人になると、「ただ、鏡があるだけなのに!?」と思うよね(笑)
色んな角度から自分を映し出してるのであっても、それが様々な姿に見えるから一瞬、方向感覚を失ったり何か違うものがあるかのように混乱するわけで…
怖いことは何もないよね。

鏡というのはメタファーだけど、
この世界ではすべて自分の何らかの側面を映し出しながら、それらが立派に独立した別々のものに見えるからね。
それらを実体みたいに錯覚して、どうにかしようとして、見る場所を間違えてしまう。
外側に何か働きかけができると思い違いしてしまう。

だけど、そんな錯覚状態に対しても、内なる声はあきらめなかった。
いつもいつも私を牽引し続けた。

私がずーっと惹かれてやまない何かであり続け、どうしても、どんなときでも勉強し続けることを「やめることができない」真心があった。
そこから目を離せなかった。
そこに真実があることを私はわかっていたから、あきらめられなかった。

ちょうど一年ほど前だったかな、自然のドキュメンタリーで見たんだ。
餌場から帰ってきて険しい岩壁を上るペンギンたちが、何度も何度もすべって落ちても、海の荒波に体ごとさらわれても、その岩壁をひたすら登り続ける姿を。
彼らの巣はその崖の上にあると、ペンギンたち自身、知ってるからね。
でも見てる方はもどかしくせつないほど、もう少しで崖を登り切るのに……というときに、滑り落ちてしまったりもしてたんだ。

まるで、その光景を思い出すようなチャレンジだったな、私も。
この世の体験としてはそうだったね。

自分で意識して、知識として完全に理解してても、いつも私は結局、鏡の世界に見える反映につられて揺れていたが、そのような幻想の波にのまれても、
その度に根気強く思い出させるものが内にいて、自分自身をHOMEに導き続けたんだ。

実在するソース(源)のエネルギーは、直結すると思わずほほえみが浮かぶほどパワフルで、
これを発見するほど楽しいことはないよ。

そして、様々な体験をしている皆が実はそう(源に接続してる状態)なんだから、心配無用で。

今や私は、私たちの楽園を映し出す眼差し、
神の一側面としての私が眺め透過する世界を、胸ふくらませて楽しんでいる。

それは、護りの姿勢じゃないの。
今後またどんな「揺れ」に思えることがこの人生にあっても、
私がソース(源)のありかをこんなにもわかってる以上、全部が楽しみであり、心躍る冒険に思えるんだ。
どんなことだってウェルカム。

だって、私はそれを楽しむから!