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「究極の自己信頼と、決して勝てない戦い(真実と幻の違い)」noteに公開しました

意識の状態、それぞれの「スタンダード」になるエネルギーの著しい変化・変遷をかなりくっきり感じられる今なのではないでしょうか。

最近の私はそうした実感のある日々の発信活動として、ぱっと話しやすいライブ配信を使うことが増えてますが、じっくり深めた内容を丁寧にアウトプットするには書くことがしっくりきます。

今回noteに公開したテーマも、私自身で深めた上で「ここを理解すると、霧が晴れたように自己が統合される」と確信している内容です。
いつもお伝えしているように「魂そのもの」の自己として生きるということが、困難を伴うチャレンジではなくなるということです。

「究極の自己信頼と、決して勝てない戦い(真実と幻の違い)」

note.com

<目次>
◇「知っている自分」の状態と、幻の違い
- 不安の反応が正しいという思い込み
- 信頼する場所を間違えない
◇勝てない戦いをやめる・真実をあきらめるポーズの終了

以下は、noteの非公開パートまでの文章をそのまま掲載します。
直接noteから読みたい方は上記リンクよりどうぞ。

究極の自己信頼と、決して勝てない戦い(真実と幻の違い)

鮭が生まれ故郷の川へ遡上するようなものなのかもしれない、誰に教えられなくとも。ただ知っている、それだけで、何を知っているのかを全部は言葉にできなくてもそれが「あり続ける」ことをどうやっても消せないから、私はずっと「私たちの存在の真実」を語ることをやめられない。

もしこのことがわかりやすく、私個人の特定の我欲を満たすためだけの目的で生じていたのならとっくに終わっていただろう、良くも悪くもそうなっていたはずだ。もっと早くに「こんなことは無駄だ」とついえていたかもしれないし、あるいは一定の理解や認識に達した時点で気が済んでいたかもしれない。

これは探求ですらなく、記憶喪失の者が心に度々浮かぶ懐かしい何かや遠いメロディをはっきりと思い出したいと願い続けるようなもの、
もしくは、確実にあったはずなのに今は不思議と使えなくなっている能力をどうにか再現しようと、あれやこれや実行していることにも似ている。

無意識的にであれ意識的にであれ誰もがそれを根底では求めているのになぜうまくいかないのか、この世界ではどうしてそういうことがあるのかを見ていた。
それは外を見ているようで別の私自身であるかのように見ており、そこから学んでいた。

精神世界・スピリチュアルなどでワンネスという理解や感覚を崇高なもののように持ち上げ、それを体現しようとこだわる人は、むしろワンネスの感覚をきれいに忘れて生きてきたから、そこにこだわるのだろう。
私の困難は個人というものをどう扱ったらいいのか? その感覚をどう定めたらよいのか、という方にあったので、ワンネスにそのように特別な感覚はなく、感動することもない(ワンネスの方が当たり前)。

スターシード的な言い方をすれば、明らかにそうなるのではないか?
ワンネスだったものが、こうしてあえて個の体験をしているわけで、それを扱えるようになるのが成熟でありマスターだろう。
言ってしまえば、ただワンネスに戻ってもしょうがないのだ。

この世のことがわかるようでわからないという「これは何だろう?」という感覚を持ち合わせながらも、私の心の奥にはいつも知っているものがいて、よく導いてくれた。
今月(2025年3月3日)のライブの以下の回で、私の過去の話も一部混ぜつつ「目覚めていることは傲慢ではない」というテーマでお話ししたが、
「目覚めてることは傲慢ではない・逆奇跡に気づこう」ライブ配信

結局、私の中の「知っている自分」を遮っていたのはいつも、この世界の中の登場人物の一人であらねばならないという根本的な「制限、恐れ」に関連していた。

この世界の人間の一員として、みんなのように、少なくともその範囲から外れないように、ゆるされる枠内での自分でいられるようにという「制限」の中には、
真の自己を小さく見せる
というとんでもない難題までが含まれる。

どんなに「存在の真実」を語れるようになっても、依然として自分の一部がこの難題に挑み続けていたのでは自己矛盾していて、
それはまるで自分が飛び立てることをよく知っているので、そうならないように何十トンもの重りを自分にくくりつけているようなものだ(笑)

この場合の「重り」に該当するものを「取る」「外す」「手放す」ワークや方法、そのための理解などを教えてきたけれども、
「誰もが自作自演でこうしていること」とダンスを踊ること自体にそろそろ私は疲れたのだった。

重りを自分にくくりつけられるのは自分しかいないのだー。
何トンもの追加の重りのおかわり、はいよっ! 永遠にあげるよっ!
どうぞどうぞ、といくらだって自分に課し続けることはできるだろう。
それらを外部由来のもの、この世界から、人から、あるいは肉体という物理的制限からのものだと思い込むことはできるだろう。

しかしいつまでこの自作自演を続けようか?
いつまで私たちは……いや私は、この世の自己であるふりをするのだろう。

この世の自己という「表現」の価値をいかなる意味でも減じずに、
それでも私は「究極の自己信頼」の状態から離れることができないことに気づいた。
そこから離れることは地獄に等しく、どうやら自分自身の目覚め、気づいている部分の枠が拡大すればするほど、それだけの意識性を否定しようとすることの困難の感触は大きくなるようだった。

それだから私は、今は素直に「究極の自己信頼」についてわかりやすく言葉で書き記し、これを読んでいるあなたにシェアしようと思う。

それはきれいごとや美化した説明でなく、かといって、忘却状態でいることを持続させつつ「ありのままの自分を愛そう!」と励ますタイプのものでもない。
(※関連する情報……先月2月11日の有料記事★「地球人生の攻略法【実体験から語る意識ポイント】」は、以下でお伝えする理解を浸透させる「基盤」を整える内容なのでおすすめ)

<目次>
◇「知っている自分」の状態と、幻の違い
- 不安の反応が正しいという思い込み
- 信頼する場所を間違えない
◇勝てない戦いをやめる・真実をあきらめるポーズの終了

「知っている自分」の状態と、幻の違い

究極の自己信頼の状態とは、言い換えると「真実の存在の状態」で、

<この続きは非公開パートです、noteで記事を購入後にお楽しみください。>