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ヴィジョンの中の診療所、私の人生とミッション【長年の夢の現象の謎がとけた】

私は内的世界と夢をよく観察していて、一般に「現実」と呼ばれている現象部分だけを見ているということは、まずない。

そうやって生きていると、意識、心や夢の世界にあらわれる「今までは解読できなかった意味」が急にわかるという体験がある。

これは、ときどき話題に出している「啓示」とは違う。
啓示は突如として、いわば神的な領域からの概念や意味を受信するような体験だ。

今説明しているのは、もっと地道にコツコツと長年かけて自分自身で関心と吟味を継続させていくうちに、あるとき理解が満ちるというか、「なるほど!」とわかることだ。

<序章>夢や内的世界と持続性

夢の世界は、起きて活動している間のこちらの人生と同じではっきりと持続性がある。

もちろん夢にも種類(出どころや性質の違い)はあるので全部じゃないが、シリーズになっていて継続している。時間の進みや用い方が、起きて活動している間の現実とは異なるけれど、多様で広大な、れっきとした世界と活動がある。

夢の次元と起きた後の活動(一般にいう現実)とはリンク・連動しているが、中にはリンクしきれてないところもある。
こちら(起きている間の地球体験の人生)が限定されていて狭すぎるからだ。

これを序章としてふまえてもらおう。

この世界という夢から出そうになると、非個人的な暗い領域に必ず戻されていた理由

私は昨日から今日にかけて見た夢の中で、「ある条件のもとで度々表現される現象」に遭遇した。
それをちょうど☆3月20日のライブ☆で話題に取り上げたばかりで(ライブ紹介の記事は★「目覚めて合意の世界から出るときの抵抗・不快感、インセプション的な話」ライブ配信)、

そのとき語っていたことも含めて、これまでは推論の域を出なかったのだが、今回やっと自分にとっての答えがわかった。

これは大きな発見なので早速シェアしたい。

最近の私は「スターシード」という語を用いたり、あとは以前から「非物質的なヘルパー」という表現で説明をしてきた役割に関する自分のミッションのことだ。

夢にあらわれる謎の領域

簡潔に説明すると、私は昨日とても平和とよろこびに満ちた状態で眠りについていた。
それは前日のnote記事、
究極の自己信頼と、決して勝てない戦い(真実と幻の違い)

これを書けたからで(当サイト上の紹介記事はこちら)、
そこに記した理解とあり方は、私自身のエネルギーも「完全なる中心」に調和させており、そこから広がるさらなる気づきもあって、エネルギー周波数的には非物質的な、高次の自己と一体の状態になっていた。

その実感があるまま、普遍の愛でいっぱいの状態で眠ったのだ。

そうして見た夢の内容は、起きてからクエスチョンマークが飛ぶものだった。
自分の起きて活動していたときの状態と夢の様子が連動「しない」ことは珍しくないけれど、それにしても今回の現象は長年繰り返されていたものなので気になった。

まさに、前述の3月20日のライブで語ったのと同じ、
「この世界という幻想から完全に出そうになると、非個人的な何かに阻まれる」
という体験がまたしても起こったのだ。

20日のライブのことを思い出したのは今この記事を書く段階になってからで、眠る時点でそれを意識していたということはないし、
上記ライブの内容もその後の回を重ねて、どんどん別の話題に発展、進行していたので心に留めていなかった。

夢にあらわれるこの現象はかなり異質で、個人的な何かのエネルギーの感触ではない。
私的な心の表現であれば、私は区別できる。そして自分なりに読み解いたり、内面の心当たりやエネルギー的なものを辿ったりしておおよそ理解できる。

だからこそ私は夢にあらわれるそうした現象を、「この世界という幻想(合意)のマトリックスから出ないようにするための、自分自身の分離を維持するエゴの防衛機能のせい?」
と考え、そのようにこれまでの記事や、あのライブでは語っていたのだ。

けれども今回、違う答えに思い至った。

まず、どんな夢になりがちなのかを説明しよう。
そういった夢のテイストは、夢の中にいる私自身は暗い気持ちや状態にあるわけじゃなく、傍観者の立場なのに世界全体がどこか暗いトーンで、どことなく嫌な感触である。

暗いトーンというのは実際の色彩のことではなく、その領域の雰囲気がという意味で、あからさまにではないのだが、何かが滅入る感じなのだ。

つまり、自身の心の表現として思い当たる恐れや悪夢、あるいは不安や不快感の表現との繋がりが見えないまま、「なんだろう?」と考え込んでしまうような世界だ。

この夢のパターンとして、毎回ではないのだが、わりと「侵入される」現象も登場する。
夢の世界内での自分の家、部屋といった場の中に知らない者が侵入しようとしてくる(もちろん通常私はこういう夢を理解する方法は複数持っている)。

それも不透明な扉からではなく、ベランダや窓といった、透明のガラスを開けて入ろうとしてくることが今回説明する夢の現象の中では多い(私の側に見えている、気づかれているということを意味するだろう)。

私は、その夢の中で侵入してくる相手を恐れてはいなかったが、相手が狂人、または何かを盲信している人と感じ取っていた。
まともに対峙しても話が伝わらない状態なのがわかるので、知恵を使って穏やかに相手の気を逸らし、侵入しようとしている相手が外にいるうちに素早く鍵をかけた。

その後、相手をまくために、私はその部屋から離れることにして空高く飛び上がった。
この夢の中では妹も家の中に一緒にいたので、私は妹を抱えて上空を飛んで移動していた(二人とも飛べる夢が通常なのに、今回は私だけが空を飛べて妹を抱えている形。スーパーマンのように)。

妹に、どこに降りたいかを聞いてみると「病院のレストランがいい」という。
その病院はビルのようになっており、屋上にレストランがあったので空から見つけやすく、降りるのは簡単だった。

そこで私たちは食事をとることにしたのだが……

(途中略)

気づくと、また別の場所。
アジアの文化が入り混じったようなテーマパークの中にいる。
レストランやカフェもあり、遊園地というよりは総合施設といった感じ。
そこにいる人々は色々な国から来ている。

ところが、その施設内で私が一緒に歩いていた相手(このときはもう妹かどうかわからなかった)が、妙に暗い、明らかに近づかない方がよさそうな危険な狭い路地や階段の踊り場のようなところにわざわざ行こうとする。

どんどん行き止まり感や迷いそうな予感がする。そして、何か物騒な感じでずいぶん暗い。
私は手をつないで付き添いながらも、
「なんでこんなところに行こうとするの、ここはやめた方がいいよ!」
と、相手の手をとって引き返そうとする。

そこの壁は落書きのペイントがされていて、場はとても暗い。
場所がそのような感じだからというだけじゃなく、どうにもよくない空気、におい(直観)があった。

そこから抜けるべく、もっと見晴らしのいい方へと急いで歩を進める。
屋外の階段を昇って、高いところへ走るように移動する。施設全体の一部を見渡せる開けたところのてっぺんにきたので、下方を眺めてみると……

「助けて!助けて!」
とこちらに向かって叫びながら、狭い真四角のプールのような、水を張ったスペースに首を固定されて閉じ込められている人が一人いる。
上から見ると床から顔だけを出している形に見える。

首から下は固定されている床の下にあるので見えないのだが、顔は上空(こちら)を見ていて、その人からも私たちの姿が見えたのだ。

ほかにも上からこの施設を見渡すともっと広い普通のプールもあり、それはそれで見た目よりずっと深いということがなぜか私には潜る前にわかった。
入ったらどうなるかを私はシミュレーションして考えていた(何か用事があるようで潜ることをシミュレーションしたのだが、かなり難しそう)。

ここは全体的にはカラフルな広い公園やテーマパークみたいな施設なのに…
人々が閉じ込められている?

一見、滞在客たちは思い思いに食事をとったり、娯楽施設でぶらぶら遊んでいるだけの人のように見える。
でも、床が一部汚れていたり、さっき書いた通りちょっと迷い込むと暗い、狭い、妙に嫌な感じの場所があったりと、色々気になるところはあった。
それに、あの首を固定されて水に浸され、助けを求めてる人……(夢の中なので水中でも溺れたり死んだりしていた様子はない)。

(ほかにも夢は続いて、かつてのこの現象と共通で繰り返されるシンボルを見るなど気づくことも多かったが、このあたりで略)

体験を総合して、何に気づいたか

起床後に私は「またか」と思った。

何が「またか」なのかというと、私が根本的にこの世という幻想から出る状態になると、つまり意識の「目覚めの度合・明晰さ」がマックスになると、こういう謎の暗いトーンの夢によって引き戻されるような現象だ。

それによって落ち込むとかはないものの、毎回「どうして?」と不思議に思ってきた。

それでもなお、私が目覚めた状態をかなり明晰に保ち続けていると、この現象も夢で定期的に繰り返されるのだ。
(すでに書いた通り悪夢というほどではないが、あまり繰り返されるとじわじわと疲労してくるようなトーンのものではある。)

そう、自分の生活の中でとか、私的な人生の日常でではなく、いつも夢の領域でこれは起こる。
そして「なんだろう?なぜ、これを見せられるのだろう?」と謎に思うことが続く。

明晰夢状態でその夢の世界にいたこともあるが、私の自覚があるというだけで、これといって解決の糸口はなかった。
自分の心を精査しても、何が原因なのかがわからないのが常だった。

それが今回、「助けて」と直接言われたシーンがあったことで、やっとわかった。

考えてみると、十何年も前にも、夢で同じようにテーマパークに閉じ込められている人たちを見ていた。
狭い檻の中で、見えないバリアをどんどんと叩きながら出たがっている人々もいた。
この夢の経験が「地球遊園地から出る」という表現を私が使うようになった理由だった。

旧ブログを始めた頃にはもう見ていた夢だったと思う、時期は2011年かその前にあたる。

それ以降ずっと繰り返し、自分の「目覚めの度合」がごくクリアーに固定される度に、ある意味「地球世界をいつ出てもいい」という心境で生きる状態になる度に、こうした夢が意識内に出現してくる。
普段の(神秘的なものやら霊的なのやら色々な種類のを含む)自分の夢以外に、という意味だ。

それを振り返っているうちに今回、今まで思い浮かばなかった見方がやってきて、繰り返される現象の伝えたがっている意味がやっとわかった。

「私は自分が出ることが目的なのではなく、助けるためにここ(地球世界)にいる」
と。

……ごめんね、過去からずっと私の記事を熱心に読んでくれてた方はブホッとお飲み物などを噴き出してしまうかもしれない。おかしくてね。
だって、私はそのようなことは自分自身で発言してたからね。

ただ、先日のnote記事「究極の自己信頼と、決して勝てない戦い(真実と幻の違い)」の中で引用した3月3日のライブ、
「目覚めてることは傲慢ではない・逆奇跡に気づこう(YouTube)」
を聞いてもらうとわかる通り、私の中には「そのような認識は傲慢かもしれない」という考えが残っていた。

それではまるで、仏陀の「梵天勧請」※のようで。
※仏陀は悟った後、真理を会得できる人はこの世にいないと思い、そのまま解脱しようとしたが、梵天(神界の存在)によって「この世にもその教えをわかる人がいるから、まだここに残って真理を伝えるように」と説得された。

もちろん、シッダールタの生きていた時代とは違い、今の地球がもう「一億総ブッダ」と言えるような目覚めの時代なのは承知しているし、何であれ私だけがというように特別に思うことはないのだが。

とはいえ、「自分の意識が現実を創造している」という観点からも、
「助けが必要な人たちを自分自身が創り出してしまう可能性」
を慎重に考え、その世界観にならないよう気をつける心境がずっとあった。

自分の完全な調和こそが、他の存在に最も貢献できるのは真実なので、
自分の内に備わっている「助けたい気持ち」をわかっているからこそ、真に他者やこの世界に貢献できる方法を考え、フォーカスを自己に向ける訓練を続けていた。

ただ、その考えで少し困るのは、私のこの人生における私的な望みがほとんど「助けること」に関連してしまうことで、
とくに「個人の夢」と呼べそうなものは、なにか診療所のようなものを持つことだったのだ。

ヴィジョンの中の診療所

いつからそう思うようになったのかはわからない、「どうも私の人生で、意識・心と癒しに関心を持つことはやめられないようだ」と悟ってから、個人の人生での夢らしい夢があるとしたら、
診療所のヴィジョン
が浮かんでいた。

ただし私は医療(東洋医学含む)を扱うのではないし、国にそれに準ずると認められているような鍼灸やマッサージや、たとえば整体等をやりたいわけじゃない。

といって、過去に自分がしてきたようなセラピーやカウンセリングをやりたいわけではない。そういうサロンやセッションルームというイメージではなかった。

私の思い描くのは、ただただ内なる声や内なる存在とともにヒーリングするということだけで、ときにはアドバイスやメッセージを言葉で伝えることもあるが、言葉を中心にするというものではない。

今はそのヴィジョンに近いものを「リモート」の個人セッションで行っているという具合で、

それ専門の場所を持ってというだけなら、そんなに不可能そうな夢ではないが、
なぜ「診療所」のようなヴィジョンなのかがポイントで、一般の人にも低いハードルで訪れてほしいという気持ちがあるからだった。
現代社会で病院やそれに準ずる施設が当たり前に利用されてるようにね。

それなら、私が何らかのわかりやすい資格を持った上でコンビネーションさせ、実際に行うのは独自のヒーリングを中心にするというのはどうかと(当然、そういう説明を明記した上で)考えてみたこともあるが、
一般向けの「見せかけ、言い訳」のためだけに、興味もない何かの資格を得るのは魂の望みと違うなぁといつも同じ答えが出ていた。

そう、私は「スピリチュアルサロンやセッションルーム」ではなくて「診療所」みたいなヴィジョンを持っている。
そこで行うのはヒーリングで、必要な言葉を交わしながらであってもカウンセリングやセラピーではない。

このヴィジョンをなぜ持ち出したかというと、ずっと謎に思ってた夢の答えが、
「自分がこの世の幻想から出ることではなく、その中にいる人たちを助けること!」
という私の人生のミッションに関わっているなら、起きて活動している私も同じ望みを持ち続けているのは当然だと肯定できたからだ。

私は、自分が幻想から出た状態になると、いつ人生が終わってもいいような、無執着の気持ちが強くなりがちだった。
言い換えると、上記の診療所のヴィジョンのようなもの以外にあまり強い個人的な望みが(形として思い浮かぶほどには)なかったから、余計にそうなっていた。

創造者として「自分の現実に、癒しを必要とする人を創り続ける発想は捨てよう」という考えもあったので、純粋な関心であっても自分のヴィジョンを否定する部分はあったのだ。

私の魂はそういう「表層の考え」に対し、「それじゃミッション・コンプリートじゃないよ」ということで、何のためにここに来たのかを思い出させ続けた。

あり方としては自分の調和状態が第一で、自分がまず目覚め続けていることが肝要であっても、そのことと私が行いたい活動とは矛盾してないということだろう。

私の診療所的なヴィジョンの中では、動物たちにもヒーリングしたいなぁ……とも思っていて、でも動物の場合は「その場に連れてこられること」自体が負担になる可能性が高く、何かほかの方法があるかな?それともやはり動物は、自然の一部としての治癒力や調和を信じて、何もしないようにしていた方がいいのかな…など、愛をこめて想像していた。

自分の真心、魂としての望みを認めれば、私がこの世界という幻想から「出ている」状態になってもヒーリング活動の終わりではないということ。
幻想を保つためのエゴの防衛機能でなく、ここにいるミッションを思い出させ、向かわせるために、まるで「引き戻される」ような夢があったんだなと納得した。

具体的なところは各自違っていても、同じような目的でこの地球体験に参加してる人は多々いるだろうから、この気づきのシェアがお役に立てたら幸い。