自分とはいったい何で、意識のしくみによる創造とは何か、そこにぴしっと焦点を当てるとね、外の情報を見る感覚がとても変わってしまう。
たとえば何かを解明したり解説している情報を見ても、それがあくまで「外に実在している客観的何か」としての前提で説明されていると、
あっ、あ、うーん……
どんなにもっともらしく、それを力説されても、様々な根拠を提示されてもね、
それらは金魚鉢の中にいる金魚の目線で、まるで鉢の中が世界で、その世界観で神羅万象を読み解く!みたいな説明に匹敵するほどに狭く感じるのよ。
私たちは、金魚鉢の金魚の視点になり切ることも可能なだけで、本当はまったくそのような存在ではないと知っていたら、どんなにそうした解説が創意工夫に富んでても、
あっ、あ、うーん……
(スタート地点が間違ってるもんなぁ。)
と、同調できなくなる。
錯覚を前提に思考し始めると、全部が逸れてしまうのね。
金魚鉢の中の身体的金魚が自分なのであるという「へり」を設定した状態での思考は、いいかげん、もうやめていいよね。
「さかさま、逆転」、私がこれまでお話ししてきたそうした表現を思い出してもらうといいかもね。
「通常の」と言われてる世界観の発想では、起点から間違えているのですよー。