個人の感想になるけれど、スピリチュアルや自己啓発、ときには宗教も含めて「薔薇色のレンズ」をかけることが幸福の秘訣だと思い込むというか、
それが神の道だと……愛や善だと錯覚しているような感じがすることがある。
でも、薔薇色のレンズをかけるということは「それをそう見る」決意がなくなって素になれば、薔薇色が剥げるっていうことじゃん?
「幻滅」という言葉があるのは幻を見ているからで、最初から幻を見ていなければ、幻滅もない。
確かに「煤色(すすいろ)のレンズをかけている」というのも、それはそれで有色のレンズになるわけだから、それよりは薔薇色のレンズが気分いいよね!というのはそうだろう。
でも、いずれにしてもレンズの色越しに世界を見てることには変わりなく、レンズを外せば違うものが見える。
私が伝えたいのは、レンズを透明にすることで、薔薇色でも煤色でもなく、無色にすることだ。
もちろん、この人生での個性というカラーが介入することにはなっても、自分のソース(真の自己)のひとつの側面としての個性なのだから、ほんとうに自分自身であるときには透明のレンズになるのよ。
最近の私はここの違いに嘘がつけなくなり、
多くの人が煤色のレンズは外そうとしているが、
薔薇色のレンズにはしがみついているということをじっと見つめてる。
薔薇色のレンズをかけてることを指摘するのは、「かわいそう」と以前の私なら多少思っていたんだな。
本人がそれで一時的にせよ心の平安を得ていると信じているなら、そのレンズを外させようとしなくていいじゃないかと。
でも、私は真の意味での癒しや解放、私たちの魂のピュアな輝きというものに興味があるんだ。
そこへの関心を、どうしても失えない。
というわけで、そこを追求すると自分自身がそうするのはもとより、発信内容としてもこうなってしまう。
「あなたはあなた自身のものの見方というレンズをこの人生で使っているが、
それを煤色でも薔薇色でもなく、透明のレンズにするんだよ。
なぜなら、透明のレンズが最も、光の透過率が高いんだ。
その光は真実の光で、まぶしすぎて目が痛いなんてことはない。
あなたを傷つけるように思えるのは、有色のレンズでごまかすことに慣れてしまって恐れているだけ。
本当の光は、あなたを癒すものなんだ。」
……それにも関わらず、私たちがこうも、自分のレンズに色付けすることを安全と思い、愛や守護のように信じ込み、その色にアディクトしていることがなんだか不思議だなぁ。
なぜ、人類はそうなったんだろう?
その答えを追うよりも前に、まずは自分のレンズを透明にするあり方が先決だろうね。
それこそが迷宮に見せかけた複雑さから出る方法であるから。