masumi's website

ヒーラー・スピリチュアル講師・物書きmasumiのサイト

流れていくこと【みえない世界の中間領域どうする?】

私の人生で決着がついてないこと、これからまだ何かやるのかな?と訝しく思ってることがありましてね。
これまでもそれをやってないわけじゃなく、むしろやってるんですけど、
「もっとか」
「こっち(起きて活動してる世界)でもいっぱい使うのか?」

と、ふつふつ心の中で煮立ってるような分野があるんです(スープとかを煮ていて、表面にぐつぐつとあぶくが立ってるイメージ)。

ほえーー。
その分野は、何とも言えない吐息が出てしまうような感じで、着手したいような着手したくないような微妙な感覚をいつも伴ってきました。

これまでもチャレンジしなかったとかただ無視してきたわけじゃなく、その都度の最大限、適切に使ってきました。
ただ、あまりそこに意識を向けるのは違うというか、不必要と考えてきたということです。

どういうことかというと、私は
「普遍の真理に基づいて、それぞれが自分を創造者であると自覚して生きる」
というところを色々な発信をする上で大切にしています。

ですが、最近また浮上してきてるのはいわゆる「中間領域」のことで、過去にもライブ配信で言及したことがあるのですが、

意識の階層、グラデーションの構造を想定して眺めるときに、普遍の真理と物理的な体験(一般に物質世界と思われてるところ)の中間にあると表現したい非物質領域のことで、
「中間」とまとめて呼ぶにはあまりに広大すぎるので、中でも物理世界寄りの非物質領域のこと、を指しています。

そこについても自分で出せる範囲内での体験談や説明、発信はしてきたし、もちろん講座や個人セッションでも必要に応じて教えたりお話ししたりしてきました。
(今のセッションでもそうです。)

ただし、それらの領域を意識することで他責思考になる傾向も人によってはありえるというか、「自分が自分の現実を創造している」という立ち位置から外れる形で、
「この場所のエネルギーがこうだから!」
「霊の影響でこうなった」
などの発想にとどまり、「それを理由に、自分が創造者であるという立場の例外をつくる」あり方になると基本原理から逸れてしまうので、その折り合いを考えていたのです。

ただ……
私の場合、「人間的、表層的」に思える個人の感覚よりも、この世を超えた視点からの流れにチューニングしている方が「整う」という実感が顕著で、
そうでないときと・そうであるときの差もはっきりとわかるし(前日の記事★「魂の望みと高ヴァイブレーション状態【よろこびのループ】」も参考にどうぞ)、

ある言い方をすれば、神に仕えるという意識で生きることが私にはしっくりきて、その状態のときに何もかもが明るく澄んで見渡せることが確かです。
その表現で言う神と私とは同一なのですが、より大きな私と言いますか、アイデンティティーをそこに置き、この世を超えた道理、導きに沿って歩むことによってこそ私は「私が私である」と感じられるのです。

逆に言うと私は、そのあり方から逸れると急にもやがかかったように色々なことが不明瞭になり、苦しくもなります。

自分の内に湧き起っているエネルギーがあって、それにさからって、
流れたいものを流れさせない
というあり方でいると、とても苦しいという人生体験の実感があります。

これまでの私はそのエネルギーをコントロールしていました。
抑えたいときには抑え、出したいときには出せるように。
でも、
「なぜだかわからないけど、こちらにどうしても流れたがっている」
というパワーを抑えると、結果として私は苦しむのです。

このことは本当は誰もがそうなのですが、

私の場合は特に顕著で、「見えない世界特化型」と呼べるような設定や役割のような特質もあって、わかりやすくそうなってるのだと自覚しています。

中間領域への感受性についてもそうで、
やっぱり、もっとこの領域も扱うのだろうか……夢の中(非物質世界での活動中)だけじゃなく、こちらでもその活動をするのか?
と、何かまだ拡張していく感覚を伴っています。

これに気づく少し前、この世界にフォーカスしてる私としては「偶然」に、
周りの人たちから、「霊や霊界についての質問」をたて続けに投げかけられていました。
普段そんなこと言わない、長年ずっと関心を持ってなかった人までもが同じ時に話題に出してきてたんですよ。
私にとっては、えっ、そこに関心あるの!?その話題OK?という意外な形で。

ひと口に霊的領域と言っても、自分がどの周波数にチューニングするかによって経験の内容は変わります。
これは非物質世界の経験全部がそうで、もちろん物理的だと思われているこの世界の体験も同じです。

非物質的な知覚についていえば、私には、他者と共有できない(物理世界的な合意に沿ってない)感受性があることはかなりの「負担」でもありました。
仕事にするという道があったからこそ、それを有効活用する転換ができましたが、日常生活では今でも「コントロール」に注力している部分はあります。
自分自身が学んだり、鍛えたりすることで培ったものはたくさんあり、そうしなければこの人生は大変なままだっただろうと感じてます。

でも、そうした中でもどうしても抑止できない!という強い引きはあり、その場合、それは私の人生で「絶対に必要な」要素に導いてくれる何かです。
はじめは「困ってしまう」ものごとに見える側面があったとしても。

つまり、私が「流れたい方向へ流れさせる」ことへの抵抗をやめたとき、次の扉が開きます。
思いもよらない大切な出会いや経験、未知の展開に向き合います。
これがパラドックスなのですが、私の場合は厳密には、それがあることを「知らない」のではなく、「知っているけど他の方向性を慎重に吟味する」という傾向があります。
別の自分になろうとするんです。

見えない世界の体験に対しても、「この領域まで感受すると、かえって大変」と思うところは飛ばしてスルーする側面はありました。

繰り返しになりますがそれは、普遍の真理への認識があれば、そうした現象や体験そのものにあえてフォーカスすることが「必要なのかどうか?」、疑問に思っていたからです。
各々が自分の真実に到達すれば説明不要(必要な体験はついてくる、おのずと学べる)と、考えていたんですよね。

だけど、今だからこその、新しい対応があるのでしょうか。
私が許容すべく心をノックしてきてる「何らかのもの」を今、感じています。

自分の中の、流れたいものが流れていくことをゆるして、それについていくことを今、私は説かれてる気がするんです。
そのあり方へと招待されている気がするんです。