自分の学びがある一定レベルまで到達したとき、
「あとは、ただやるだけ」
という実感に満ち満ちていることがある。
実践しているつもりでも、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら「こうかな?ああかな?」と修正している最中は発見が多くて、何かに「向かってる」感じがする。
やがて、あるポイントを突破すると、
「自分の内が、『ああ、これだった!』という気づきで満ちる状態」があって、
そこに達すると、何も不足のない自分という「源」から動ける。
このとき、
「あとは使いながら楽しむだけ」
という「存在することそのもののワクワク」にフォーカスが合って、自分という存在のポテンシャルがひたすら幸せであるという自覚、これまでとはまったく違う確信の感覚が自分のスタンダードになる。
その状態になってからビフォー・アフターを眺めれば、「違い」は、
自己という存在と意識について、学んだり思い出したりした内容をそのまま、
ただやるだけ
ということなのだ。
逆に言えば、その状態になる前は、
やってるようで、やってなかった
と、わかる。
これがどういうことだか説明しよう。
たとえば私はこうした記事やライブ配信の活動で、意識の使い方と私たちの真の自己について語り続けているが、そこで伝えていることは本質的に一定で変わりがない。
根本の真実や原理というのはコロコロ変わるものじゃないので、何が違いを生むかというと、
ただやるか、それとも目の前にあるように見える自分なりの「理由」を作って、やらないか
これだけなのだ。
「使う」ということは、本当に使うことを意味する(笑)
自分が「適用外」や「例外」を作りたいとき、何かを言い訳に先延ばしにしたいとき、
もしくは自分の人生のクリエイターであるよりもむしろ他の何かでありたいとき……
ただやる、というそのことが、遠くにあるように思える。
そこまで到達するための「長い学び」が必要に思える。
学びは、あなたの「やる気」「本当に使う気持ち」を起こさせるためにあると言ってもいいのかもしれない(笑)
自分自身が「そうだった!」「本当にそうだよ!」という気持ちで、「ただやる」「使う」ためのエンジンを起こすことが、あなたが理解を深め納得をすることの「効果」なのだ。