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照れってなんだろう、と考えてみる

あまり有害だとは考えられてないが、自分の人生の中で「照れ」ってなんだろうと見つめてみると、これは実は「回避」にほかならないのではないか……と思う。

照れはかわいらしい、好ましい、ちょっとスパイスになる楽しさがある。
そう捉えれば決してそれが「恐れ」であるようには感じられないのだが、自分の本当にしたいことを阻害するという意味では、恐れであることに間違いない。

照れによって表現が屈折することはよくある。

本当はそんなこと言いたいんじゃないのに過度にクールになってしまう、ぶっきらぼうになる、なんなら冷たくなる。あるいは礼儀正しく、よそよそしくなる。
近づきたいのに距離をあける。極端な話、抱きしめたいのに「ぷいっ」ってする。

感情やフィーリングをそのまま表現できずに「頭脳派」「理性的」なふるまいをする。
したいことをそのまませずに、迂回する。恥ずかしいから。

うーん……やっぱ、恐れと呼べるよね、これは。

じゃ、照れがなくなった自分、なくなった世界を考えてみるとどうなのか。
照れにメリットがあるならば、照れをなくした世界はつまらないのでは?

ところがどっこい、意外なことに、もしかすると照れをなくすと、「よろこびをモロ出し」できるのではないかということに気づいた。

なりふり構わず、よろこび百パーセントの自分でいられるのではないかと。
「恥じてるクッション」による、自分以外の自分を装うことがなくなる。
ほとばしり出てくる愛情だの、よろこびだのの表現に、自分をそのまま投入できる。

結局「どう思われるか」がなくなれば、照れは存在しなくなるわけだが、
ここで一番厳しい「ジャッジ」は、自分なのだ。

というより、コイツ(自分)しかいないと言っていい。
何が照れちゃうか、そうでないか、自分の基準で決めている。
相手や他者を思っているようで、そうではない。参照しているのは自分自身なのだ。

そうなのだから、Don't be shy. BE YOURSELF.

Shyなあなたも私もカワイイけれど、もっと自由になれるよね。