私、ニュースやメディアの情報なども関心あるものは見るのですが。
スピリチュアル思考のためにそれらをことさら断つ、なんてことはしてないのですが。
一通りそういうものを自由に見ても、必ず思い出してることがある。
というか日常のどんなシーンでも我に返るようにしてることがある。
この、フツーの世界観、考え方に染まったら負けだなぁ
という認識です。
通常「優勢」になってるものの見方には注意、ということだ。
何に負け?自分に負け。目的が果たせなくなる。
べつに普段たたかってるという意味ではなく、言葉のあやで「負け」と表現してるわけですが。
私が自覚・認識してきたこととして、見える通りの世界、自分が体験してきた観念の枠内のものの見方をしてると「ドン詰まり」、
もう少しマイルドに言うと、良くてもせいぜい「さほど悪くはないが、最高というほどでもない」体験の範囲内にとどまる。
可もなく不可もない。いや、「可」寄りだとしても「幸せってこういうものだよね」と自分をやさしく納得させるような妥協の幸せにとどまるというか。
無気力の幸せというか、
その奥に本当は自分が手を伸ばしたい何かがあることを、見ないことにする幸せというか。
なぜなら、「この枠内」には、ほしいものが存在しないから。
そう、自分が今まで体験したり培ったりしてきた範囲内、その枠内には、完全にほしいと思えるものが何もないのだ。
それを漠然と知ってると、この世界の体験そのものを「そんなものだ」とあきらめる、期待しない、ここの中での平穏無事とそこそこの幸せ、それを満たせればまぁOK。
…とまぁ、どうも面白くない方向、ワクワクはしない方向にマインドが着地してしまう。
どっかり、その「平穏」に居座ってしまう。
自分の知ってる観念の枠内、見える通りの世界の範囲内に体験を制限するとはそういうことだ。
ここで出てくる問いは、
「私はそのような世界を生きたいのか?体験し続けたいのか?」で、
そうではないから、それでは心満たされないから、それをちゃんと心のどこかでは感じてる。
何言ってるの!それしかないのよこの世には、
と、自分を聞き分けよくさせようとする力が、マインドの中で働く。
「ほら見てごらん、これが事実だよ」と、外に見える現象や世界を証拠に使おうとする。
既存の見えるものや既知の考えに沿って、「その枠内に従わせよう」とする自己内の一部がある。
それに同調したら、説得されたら、眠ったまま生きる状態のいっちょあがり。
マインドのクリーニングのために、自分自身の過去だの、インストールした観念などを全部洗い出す必要なんかない。
そうじゃないんだ、
今、自分がどうありたいか、目を覚ますんだ。
この世にないものを見ると決める。その余地をゆるす。
自分の「内にある」きらめきを見る、
声ならぬ声、自分の内側から響いてくる声の方に耳を澄ます。
するとマインドは「それに沿った仕様」で働き出す。
これは「この世で言う善悪の観念の中での」善に沿った自分を作るという意味じゃないよ。
この世の枠内の思考に染まってる状態から外れた、クリーンなマインドを働かせるための話。