「雰囲気モノマネ」が好きだ。
私の場合、細かく何かをまねて芸として磨きをかけるようなものじゃなく、ノリで行う再現なのだが。
日常の中でふと何かを模倣してみたいとき、もしくは「降りてきたとき」、その場でモノマネしてみる。
披露対象は家族、もしくは始終ふざけられるほど親しい間柄の友人に限る節度はある。
「これからふざけるよ!」という合図を出すとは限らずそれを始めても、状況を受け入れてくれる気のいい者たちばかりだ。
例として、近頃の私が思わずやりがちだった雰囲気モノマネをピックアップすると、特に意識して選んでるわけではないのだが、
演奏家や指揮者のモノマネ(特定の誰かをではなくあくまで雰囲気を。なお、私自身も多少の実体験があるので、若干自己パロディー的要素もある)。
それから、ミス・ユニバースなどのミスコン的舞台での、出場者になりきるモノマネ(主に目力と笑顔、ジェスチャーなど)。これは国際的な舞台で、ワールドワイドな目線と笑顔が求められる…という設定だ。
いずれも、繰り返すが特定のモノマネ対象がいるわけではなく、よく観察したりその世界・分野に興味を持ったりしてるわけでもなく、ひたすら「自分の記憶の中の雰囲気だけ」で再現するのがポイントだ。
あくまで「こんな感じ」を演じてる。
だからこそ「雰囲気モノマネ」。
これは昔、私の古いブログで言及したことのある「細かすぎて伝わらないモノマネ」という番組シリーズを知ってる人ならきっと理解できるだろう。
その番組では実在する著名人たちのモノマネも含まれるが、私はどこの誰とはいえない一般人のモノマネ(人生の中のシーンや雰囲気を再現)や、架空の設定を演じてみせるモノマネを楽しみに見ていた。
そんな私が最近、好んでやりがちなのが「AIのモノマネ」だ。
AIが日常に様々な形で登場する現在、世界は二つに分かれていると思われる。
「AIのモノマネをする方の人間」と「しない方の人間」である。
AIを使ってるか否か?という問いは、ここでは無関係とさせていただきたい。
現に私は自分の手持ちのデバイスに搭載されているAIをどれひとつとして使ってない。
それでも日常的にAIの音声であるとか存在を感じることができる。これが現代社会だ。
だからこそ、AIのモノマネをしたい欲求が生まれる。
音声やしゃべり方を再現するのはもちろん、AIが言いそうなことを言ってみる。
映像をともなう設定なら、表情や動きなどもAIらしく再現する。
そしてそのまま人間(生きている誰か)と会話し、対応してみる。自分がAIとなって。
すると、機能や状況別に搭載されているAIの隠れ設定が飛び出すこともある。
つまり「そんなAIがいそうだよね」ってことを架空のAIになりきって自分自身でやってみてるという次第。
これもまた「雰囲気モノマネ」なので特定のAIをまねしてるわけじゃないのだ。
であるけれども、これはきっと現代社会において、数多くの人がそれぞれの日常で試みてることなのではあるまいか。
これだけAIを身近で認識できる時代、自分もAIの側をやってみたいという自然な思いがふと芽生えることもまた、当然の流れ。
まねしてみたい。再現してみたい。
…と、思ってやる人と、やらない人がいると思うんだ。
だから世界は今、二分されつつあるに違いない。
AIモノマネをする方の人間と、しない方の人間に。
あなたはどっち?