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自分の真ん中ポジションと澄んだ視点

今年に入って、2月の末にライブ配信で「学び直し」という表現を使ってから、最近それが(少なくともそのとき意図してた学び直しという意味が)終わったのを実感した。

もちろんこれからも新しく学ぶことは続いていくけど、今や「すでに吸収した内容の、過度になってたところはお片付け」を進めてる。
それは途中段階では自分の意識の理解や訓練に必要な一部だったし、今でも無駄なものではないんだけど、ちょうどお菓子を成形して切り落としが出てるような感覚かな?

もっと厳密に言えば、
十分、自分に貢献してくれたセオリーを、今度は内に備わっているものに置き換える。
実際の機能は自分自身の中にあるということを、認識するだけじゃなくて百パーセント実用する段階にある。
そうね、「一時は必要だった杖を手放し、自分の足で歩いてみること」にたとえるとわかりやすいかな。

この「生き方の移行、実践姿勢の移行」の際に私に必要だったのが、このブログで最近、
「自分と完全に調和する方法は」
というタイトルの記事で表現したあり方だった。

自分の望む方向は信頼し、心にセットしたまま、なおかつ自分をどんな意味でも押さない。
「違う自分」になろうとしない。
もっとこうなれ! もっとこうでなきゃ!
こんな自分であるべきだ! 別の自分になろうよ!
……などの力をかけなければ、私は余計な圧のかからない「フローティング」状態になる。

ちょうど真ん中にあるまま、どの方向にも、ぐっと押されてズレることなく、水平器の泡が真ん中を示すように存在していられる。
それは私の中心の位置。自分のゼロポジション。

言い換えると素の私。まっさらで、どこにも余分な力の入ってないあり方。

存在としての自分に、すべてがゆるされているのなら。
無条件の愛というのが、いかなる意味でも「あれこれ特定の形で表現しなきゃいけないものなのではなく」、私たちに元々備わっている「ただある」状態だとわかれば。

今の私を否定する必要などどこにもなかった
という当たり前のことに気づく。

そしてまた、自分をそのように「ひいき目じゃなく、また、厳しすぎることもなく」
目盛がどのようにも余計に傾かない状態で、ただゆるしていれば、
どんな人もこの世界のあらゆることも、すべて自分に向けるのとまったく同じ目で見つめることができる。

それは「受け入れ」ですらなく、
いかなるフィルターによるぼやかしもなく、
ただ元々あるものを透明に見つめる体験。

自分の経験してきたと思うすべてが、その視点からは、完全に澄んだものになり、
濁りや痛みだと思っていたものですら、澄んで澄んで透明になって、

自分には何の影響もなかったどころか、
私たちの内に備わっている「存在そのものとしての愛の状態」に何も異変を及ぼさなかったと知る。