ほんとに知らなかったんだ、知らずに話題にしてたんだ。
一週間前の記事※で、雰囲気モノマネについて急に語りたくなり、私の好きな「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」という番組に言及したことは……普段は年一回程度しかやらないその番組が、ま、まさか「夏の大会」を昨夜放映するなんて私は知らなかったんだ。
※該当記事★「AIのモノマネ、する方の人間としない方の人間」
だってあの番組って年末近くに放映されてなかった?
私もテレビを頻繁に見る方じゃないから、毎年ふんわりと「あ、今やってるな」という感じで見つけたときに、見ていた。
でも、一年の最後の方で見ていた記憶だった。
それが今年は夏の大会と。冬の大会もあるようなことを番組内で言ってたよ!?
まさか自分が記事内で番組にふれて(話題の関連で思い出して)すぐに「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」の最新がみられるなんて、思ってもいなかったの。
またまたー、記事を書いたときに番組のこと調べてみなかったの?
……と思う人もいるかもしれないけど、私は全然で。
それだから前半を見逃したの。
悠然とその時間、何も知らずにスーパーで買い物なんかしていたの。
特にどうしても昨夜行かなきゃいけなかったわけでもなく完全に思い付きで、普段よりけっこう遅い時間に出ていたの。
「夜の散歩がてら、今日は満月だから行ってくるねー!」
なんて家族に話して。
一昨日の夜の時点でこれも偶然「翌日から満月だなぁ」と、月を見て気づいてたのね。
だけど、雲に覆われた夜空から満月は見えず。
それでも、人も車もほぼいない、まるで「貸し切り」のような静かな夜の道を歩くのはそれなりに楽しくて。
ゆったりと帰ってきたら、ダイニングテーブルの上に誰かが置いたテレビの番組表。
なにげなく手に取ってみたら、やってたの。「ザ・細かすぎて……」が。
もちろんすぐにチャンネルを合わせて見始めたよね、そのときで、ちょうどきっかり半分が過ぎていて。でも普段なら私はその時間、ライブ配信などの仕事の活動をしてることがあるから、番組全体が完全に終わるまで気づけなかった可能性もある。
気づけたのは、思い付きでイレギュラーな行動をとったせい、とも言える。
そこからは席を離れることもままならず、終わりまで一気にリアルタイムで見たよね。
今回は、私が例の該当記事で好みとして語ってたように、著名人等のマニアックなモノマネ以上に「一般の人の日常にあるシチュエーション等をモノマネ」する人が多かったから楽しかった。もうタイトルの時点で笑っちゃうこともしばしば。
その種のモノマネでいつも私が楽しみにしている数名の人たちのほかに、新しい出場者たちも面白くて、かなり笑いながら見てました。
あと、「番組のレギュラー出場者の登場の仕方や立ち方をモノマネする」というメタ視点なモノマネまで登場してて、タイトルを裏切らずニッチなコンセプトがゆるされてる世界だったよね。
私よりもお笑い好きな家族(妹と母)は、ここまでこの番組にははまっておらず、いつも私だけが独自に好いてるのだけど、今回も私は「この調子でこの番組は続いてほしい」と思いました。
私が見た後半だけの範囲内でいうと、これまたマニアックだけど、
「電器屋で曖昧な返事をする店員」
モノマネが私はけっこう好きだった。
二人連れ立って商品を見ているお客に、「これより大きいテレビあるかしらー?」とか話しかけられて、曖昧な返事をしながら売り場からすーっと離れていく店員(たぶん戻ってこない)というシチュエーションのモノマネ。
これって大手電器屋さんでけっこう出くわさない?私は経験ある。
声をかけたさっきの店員さんはどこにもいなくなり、しばらく待って、新しくしっかり対応してくれそうな店員さんをつかまえて相談し直すよね。
あとは、今回優勝した人の番組のラストを飾るモノマネがこれまた地味なシチュエーションを再現したものだったのが、この番組らしくて良かった!
タイトルは「それは無理だった人」だったかな……何が無理だったかは、見たらわかる!(笑)地味!でもわかる!
おおっと、話が「ザ・細かすぎて……」に逸れて終わりそうなので軌道修正。
ええと、シンクロニシティ(synchronicity)って意識してますか?
共時性とも言われるそれは、
「えっ、すごいシンクロ!」
なんて日常でも気軽に使われる。私の周りではそう。
ついさっき考えてたことがまさに現実になったり、誰かとの間に同じ体験がほぼ同じ時に起こってて、お互いにそれを知って驚いたり……。
いわゆる虫の知らせや、本人にとってはネガティブに感じられるシンクロもあるのだけど、シンクロって「自分の現実を思いがけず別な見方で捉える楽しい機会」になりますよね。
意識の作用、「自分の現実は、自分の内の反映(創造)である」ということをドキッとする形で思い出させてくれるというか。
今回の私の場合はテレビ番組ということで、番組表だとか放映予定は見ようと思えばどこかに出ていたはずなので、この話を聞く人にとってのシンクロ感は薄いかもしれない。
でも、私個人にとっての体験は別で、
「何も知らなかった」私にしてみれば、たまたま思い出した好きな番組がほどなくして放映され、そしてまた普段テレビをあまり見ない私が(後半からとはいえ)ちょうどよく気づいて見ることもできた!という、れっきとしたシンクロ。
こういう風に、「そこまで大きな意義を与えることもないと感じるような」日常生活のシンクロは続々起こってて、たとえとして、これまた地味なものをひとつ。
「妹にメッセージを送る際、話題に関係ないのにどうしても私は急にミツバチの絵文字を入れたくなった。しかも、その感覚が強すぎて、二回連続でメッセージにミツバチの絵文字を入れた」
(注:親しい人に対して以外には、本文に関係のない絵文字は控えていいかもしれません)
……という行動の後、それを忘れてしばらく時間が経過した後に、リビングで家族が養蜂をしてる人の番組を見ており、ミツバチの生態が画面に大写しにされながら説明されていた。
私はたまたま用事があって、そこを通りかかったので目撃した、とか。
いやぁ、そんなシンクロ、いくらあっても特に意味はないでしょ……という重要性の話じゃなくて。ポイントは「これは自分の夢なんだ」感。
言い換えると「自分の現実の創造者」であると自覚する感覚。
これは今、急にシンクロが増えたっていう話じゃなく、元々多くはあるけれど、こうしたシンクロ体験の中で私がふと思ったのは、
「すべてにシンクロニシティーを見い出すようになったら、自分はそれに耐えられるのかな?」ということ。
私の辿る意識の変化を考えれば、きっと将来的にはそうなる。
完全に「これは自分の意識がつくってる現実だ・夢だ」とわかる状態は、私は「明晰夢」にたとえて自分の発信活動の中で説明することがあるけれど、この人生・現実体験がそこまで自覚的に一致するものになったらどのように感じられるんでしょうね。
実際の「眠ってる間にみる明晰夢」については、そのときどきで差はあれど、そこまで完璧に全部をコントロールできる体験ではなかったりするので。
やはり「意外性」というのが、私たちの楽しみでもあるんじゃないかとは思ってます。
どうかな、あなたは、シンクロの連続に耐えられますか!?
私たちの存在のあり方を考えればきっと、どこまで行っても「意外性」「未知」「発見」という要素は出てくると思うんだけどね(笑)