意外に思う方がいるかもしれませんが、私は「操作性」というものがあまり好きじゃない。
いくつか前の記事で書いた、予言に興味がないというのも、予測することに興味がないというのに等しいのかもです。
予測ではなく、純粋に直接「知る」とか「見る」ということなら好きですけどね。
コントロールするというあり方に、私はかなりの退屈を感じてしまうのです。
「意識的になる」話を多くしているので、これは矛盾のように聞こえるかもしれませんけれども。
私は意識して未知を出現させようとしているといえばわかりやすいかな?
だから、精神世界の取り組み方も前回の記事で書いたように(引き寄せへの表層的な理解についてなど、★「統合視点と二極性のポジティブ・ネガティブの違い【リマインダー】」)
操作性、コントロールに基づく「創造」の姿勢に根差す教えは、「どうでもいいかな…」という感じで熱意を持てない傾向です。
自分の意識を自覚的に使う訓練としては役立つとしても……というところですよ。
私は「自分が自分の現実の創造者であること」を伝えてるので、意識を自覚的に眺める点では共通ですが、志向してることは以下のような感じ。
私は、大きな自己としての体験全体(物理的現実の経験でいうなら世界全体、宇宙全体のことだね)の、途方もないハーモニーやダンスを見たいのです。
ばらばらに見えるすべてが各々の純粋なよろこびで踊るとき、大きな視点で見るとひとつのダンスになります。
必ず、全体のハーモニー、調和のダンスになっているのです。
その体験が至高。
そうやって私は楽しみたいだけ。遊びたいだけ。
そのために「自分が自分であること」を生きるあり方を大切にしますが、
なんというか、表層的な自己が望んでるあれこれを実現するための操作については、情熱を持てないのですね。
そっちは面白くないからねー。
手に入れたいのはそれじゃない、って知っているので。
私の場合、人に惹かれるときも、なんだか変な人だな、とかの要素が大切です。
「不明」や「未知」の感覚が動機になります。
何かしら自分にとって興味をひく音を内から奏でているということ、
見たことのない内的色合いが漏れ見えていること、
表層と中身がなんだかチグハグすぎて、どうなってるのか興味を抱くなど。
ね、「理想を書き出し、視覚化する」などの願望実現とは全然異なる方向性なのがわかるでしょう!(笑)
自分の理想を実現させるという方向性は、たとえその通りになるとしてもよろこびの度合は私は薄い気がするのですよ。
「それで?」という気持ちになってしまうのね。
自分の予測できる思考の外を体験したい、この気持ちの方が強いんだということを、以前の私はこんなにはっきり気づいていませんでした。
表層は面白そうな何かであっても、理想的な人や条件、状況であっても、自分の心に面白く感じられなければ熱意も興味もまるで生まれないのです。
ただしこれは人間への、個人間で関わるほどの場合の「引き」の話です。一方で、
自然界に感じる「引き」は、ひたすら、愛しさと興奮!
驚嘆と感動と賞賛にまみれてます……様々な生き物たちに対してね。
……まてよ、
これってもしかして地球を実はあまり直接体験したことがないのかな?
それで地球の自然、生き物たちに「うわぁぁぁ、ほ、本物だー!」みたいな感じでドキドキワクワクしてる?(笑)
このように自覚的になると、私は生涯冒険家なのかもしれず、
「こういう理想を実現したい」的なこの世の型についてはずっと、本当には何もないのですよ。
私の望みはここで書いたような「質」的なもので、形がないのでね。
あえて言葉にするならば、自分が自分であるときに、予測のできないダンスを世界全体も踊ってみせてくれる、その能動・受動が一体化したハーモニーと、
部分でありながら全体であるという真の自己の楽しみを、ありとあらゆる形で見出せる面白さと至福を感じてるんですよね。